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■琳派を生んだのも育てたのも実は徳川家康だ!誰も言わない美術史。その■

[ 2019-01-27 ]

徳川家康の孫娘、和子(まさこ)が皇室に入内して、着物道楽を極め、尾形光琳の実家の呉服屋である雁金屋に、半年で現代の金額にして2億円もの発注をしたことは、前号に書いたとおりです。この多大な支払いが、天才・光琳を育てる培養土となり、弟の乾山も含め1700年前後の琳派を花咲かせた、と結論付けた訳です。





1620年 徳川家康の孫娘、和子(まさこ)は後水野を天皇に嫁ぐ


ところで琳派の誕生はいつかと言うと、それに先立つ1615年。今から400年前。ちょうど徳川家康が大坂夏の陣で豊臣方を完全に滅ぼした年です。記録によれば、本阿弥光悦が、「辺地に住むことを願い出て、家康より京都の北西部の鷹峯の土地を拝領し」、一族や工人とともに移り住んで芸術村をつくった、のが琳派の始まりとされます。琳派の末裔の人気画家、神坂雪佳の《光悦村図》では、光悦らがお茶や創作を楽しみながら風流人然として暮らしている様子が想像で描かれています。これらの伝聞から、一般には徳川家康は徳政者であり、フィレンツェのメディチ家のような芸術のパトロンであったと思いがちです。でもそう思った人はすでに、家康の情報作戦に嵌まっている、と言えるかもしれません。


もともとこの話って、何か胡散臭くないですか。死ぬ思いで権力を奪取した第一世代は、政敵を駆逐し権力基盤をより強固なものにすることでもう精いっぱいでしょう。それなのに光悦村の話はきれい過ぎて、余裕があり過ぎ。逆にお金のリアリティと人間の欲望が見えてきません。一族で僻地に移り住んで、仕事や収入はあったのかい、と突っ込みたくなります。まさか年金まで家康が払ってくれたわけでもあるまいし。


それで、さすがに可笑しいと思ったのか、光悦が法華経信者で、門徒を引き連れて移住したなどと言う珍説を唱える大先生もいます。まさかねえ!現生利益の法華経徒は街中に住んでこその人生。わざわざ隠れて集団生活をする必要などありません。また光悦が家康に嫌われて市中を追い出された、などという臆説もあるようですが、嫌う人間に土地を与えるお人好しな権力者などないでしょう。


それでは一体、光悦村は何のために出来たのか。このことは僕の中でずっと疑問としてしこっていました。二条城の建設で住民の立ち退きをさせた補償かとも思って見ましたが、本阿弥家の敷地はそこから外れています。秀吉の北野の大茶会のような人気取り政策、今日でいえば万博のような話題を狙ったものかとも考えましたが、広報イベントとしては地味すぎます。謎は深まるばかりでした。



ところが数年前、僕は「新発見 洛外洛中図屏風」(狩野博幸 青幻舎)で、和子入内の豪華絢爛なパレードの絵柄(上に掲げた図版)を見たとたん、光悦村に隠されていた重大な真実がビカッ!と光って輝き出るのを感じたのです。ここから先に書く推論は既に発表したものなので、ニューズレターの古くからの読者は、「ああ、あの話ね」とご記憶があるかもしれない。ただ新しい読者も増えたこともあり、僕としては東福門院(=和子)の着物道楽とそれに先立つ和子入内の儀式を紐づけて、琳派発生や興隆の決定的な要因として、皆さまに改めて提示したかった訳です。僕の仮説を補強する光悦村の有力な資料も今回新たに見つけましたので、それも開陳します。まだ誰も言わなかった美術史上の新説、長くなるので衝撃の真実は次回に(つづく)。



岩佐倫太郎 美術評論家/美術ソムリエ

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